いらっしゃいませ!
名前変更所
カシャン、カシャン――――。
トレーニングルームに響く、聞き慣れた音。
鉄串が振られているであろう音にそっと扉を開けたゾロは、トレーニングルームで苦しげに息を吐くくろねこを見つけた。
くろねこは男であるゾロより力が弱い。
それをカバーする柔軟性や技は目を見張るものがあるが、彼女はそれで納得しない。前までは持ち上げることすら苦しげにしていた鉄串を振り下ろせるようになっているところを見ると、それなりにトレーニングを続けていたのだろう。
真剣に荒い呼吸で数を数えるくろねこは、視線だけをゾロに向けて鉄串を振り上げた。
3000回まで我慢して
「2800・・・ごめん、ちょっと、借りてる」
「あぁ」
「3000まで、待ってね・・・・」
3000までと決めているらしく、それまで待ってくれと告げたくろねこはすぐに視線を鉄串に戻した。妥協しないくろねこは、ゾロが来たからといって手を止めることはしなかった。
少しふらつくくろねこの足元には大量の汗が滴っている。その汗の中に赤色が混ざっていることに気がついたゾロはふと汗が流れ落ちる手元に目を向けた。
「はぁ・・・っはぁ・・・!」
くろねこの手元から落ちる汗に、血が混じっている。
おそらく、豆が潰れたのだろう。
気になって声を掛ければ、また動きを止めずに視線だけがゾロに向けられた。
「なぁに?」
「血、出てるぞ」
「あ!ごめん!あとでちゃんと拭いて返すから・・・!」
「いや、そういう問題じゃ・・・」
鉄串を汚すなと言う意味に捉えたのか、くろねこが申し訳無さそうに笑う。
汚れを気にして一旦鉄串を置いたその手も真っ赤に染まっていた。包帯を巻いてはいるが、これだけの重量のものを振り回せば意味のないサポーターだ。謝りながらその血を拭いてもう一度構え直すくろねこを見て、ゾロは大きくため息を吐く。
心配してるという発想には、至らないのだろうか。
自分の感情も相手からの感情も、純粋素直ストレートの単語を並べて受け取る船長とコイツには頭が痛くなる。
痛みと苦しさに顔を歪めながら数を増やしていくくろねこの努力を無駄にしたいとは思わない。だが、その手を傷つけてほしくないという感情もあるのは“大事な人“としては当たり前のことだろう。
「2832・・・2833・・・!」
「おい」
「も、もうちょっと待って」
「・・・・おい」
「2834・・・!」
「待てねェ。構え」
「かま・・・・構え???」
綺麗な二度見をかましてゾロの方を見たくろねこは、あんぐりと口を開けながらその場に鉄串を落とした。ジム部屋の分厚い床や壁すらも揺らすその重さが手から滑り落ちても、その場の二人はびくともしない。
「えっと・・・あの、ゾロさん」
「あァ?」
「今、な、なんて・・・・」
「構えっつったんだよ」
「そ、それはえっと・・・武器を構えろ的な意味で・・・・?」
ゾロはチッと舌打ちをすると、棒立ちで固まるくろねこを抱き寄せ、部屋の壁まで引きずった。そのまま壁に寄りかかって座ったゾロの膝の上に乗せられたくろねこは、壊れた人形のようにギギギと首を回してゾロの方を見る。
「えと・・・・」
普段見ない幼なじみの奇妙な行動にくろねこは戸惑ったまま。
後ろから抱え込まれるように掴まれているくろねこは、どうすることも出来ずただ膝の上でじっとしていた。何を喋るわけでもなく、後ろから抱きしめられた状態でお人形状態を続ける。そろそろもう一度振り返って真意を尋ねるべきか悩んでいると、動き出したゾロがくろねこを包み込むように抱きしめた。
身長の高いゾロに抱きしめられれば、ほぼ身動きは取れない。
その状態で伸びてきた腕がくろねこの血だらけの両手を掴んだ。
「・・・・・」
同じ剣士として、安々と“頑張りすぎるな“なんて言葉は言えない。
―――――言うべきでも、ない。
高みを目指す者同士として分かってしまう。上を目指すならどんなことだってやりたくなるものなのだ。強い敵との戦いも、スキマ時間の鍛錬も。それによってある程度怪我を負うことだって覚悟の上だ。
くろねこの強さはそこにある。
そしてゾロがくろねこに惹かれる理由も、そこにある。
「無理、すんなよ」
それでもゾロの口から出た言葉は、そのタブーに触れる言葉だった。
「剣士にそれ、言う?」
「分かってて言ってんだよ」
「・・・心配性だねぇ。それとも、綺麗な手の女の子のほうが好み?」
意地悪く尋ねるくろねこに、咎める意味合いで首筋に噛みつく。
ひゃ!と甘い声が上がったことに気分を良くしたゾロは、噛み跡をゆっくりと舐めあげた。
「あ、ちょっと、冗談だって・・・っ」
「お前が俺の怪我を心配すんのと同じだろ」
「わ、わかってるって・・・!でもあとちょっとで目標数だったから・・・!」
言い訳を叫ぶくろねこの両手を広げ、ゆっくりと包帯を解いていく。
包帯の下は傷だらけだった。豆が潰れたものから、切り傷まで。つい先日も海兵に追われて戦闘をしたばかりだ。その時の傷も残っているのだろう。
「じっとしてろ」
血だらけの包帯が乱暴に床に捨てられる。
それからちょうど近くに転がっていた塗り薬のようなものに手を伸ばしたゾロが、それを手にたっぷりと取ってくろねこの手に擦り込んだ。ゴツゴツとした大きな手が自分の手を絡め取っていくその光景に、くろねこが身じろぐ。
「・・・どうした?」
「いや・・・なんかドキドキしちゃって」
珍しく誤魔化すこと無く、くろねこがうっとりとした表情で呟いた。
「ゾロの手、大きくて、指が長くて、なんか・・・」
「・・・・」
くろねこの手は、ゾロと比べるとかなり小さい。
それでも刻み込まれてきたモノは同じぐらい大きい。希望も絶望も努力も何もかもを背負うには、本当に小さすぎる手だ。その手を優しく労るようにゾロの手がなぞる。痛いとは分かっていながらも指を絡め、くろねこの手を包んでいく。
「お前の手はちいせぇな」
「どっちかっていうとゾロがでかすぎるんじゃない?」
「・・・そうか?」
薬を塗り終わり、血を丁寧に拭ってから包帯を巻き直したゾロは、そのままくろねこを離すこと無く手を別な場所に滑らせ始めた。
「っ・・・・ゾロ?」
「好きなんだろ?俺の手」
「だからってセクハラしていいなんて一言もっ・・・!」
「治療してやった礼だろ」
「勝手にしたくせにー!?」
「っせぇ」
くろねこの手から離れた手が腰に回り、引き締まったラインをなぞっていく。服の上からとはいえくすぐったさに身を捩ると、それに気を良くしたらしいゾロが更に手を下に伸ばした。短いスカートをわざとらしくゆっくりと捲り、顕になった太ももに手を這わせる。
ただ、なぞるだけの行為。
それだけでくろねこの体は燃えるような熱を帯びていた。
何もされていないのに息が荒くなっていく。
くろねこは自分の体の異変に気づき、心のなかでゾロのせいだと呟いていた。
ジム部屋は実質ゾロの専用部屋になっており、この部屋だけで行われることも色々と多い。その中には恋人同士の二人が愛し合うことも入っている。それを思い出させるような熱を与えられれば、たまらず荒い呼吸を吐くことになる。
「ん?」
分かってて聞いている声色。
くろねこは震える手をゾロの手に重ねて止めようとするが、そんな弱々しい待てを聞くほどゾロもいい子ではなかった。
「3000回まで後少しだったな。トレーニング続けるか?」
「ッ・・・・」
「それとも・・・なにか別なことでもしてェのか?」
トレーニングを続けろという言葉と裏腹の状況にくろねこは何も言わない。
離れない手。
離れようともしない体。
汗ばんだ肌。
耳元を擽る熱い吐息。
「くろねこ」
「さ、3000回まで、我慢してよ」
「あァ?俺は別にいいぜ?」
そう言いながら、ゾロは手の力を緩めない。
「・・・・っ、ゾロ」
憎いのが、ここで本気を出せば振り解ける力だということだ。
あくまでも逃げ出せる状況で、逃げ出さなかったのは、体を委ねたのはくろねこだと言わせるための力加減。それが分かる自分も悔しくて、くろねこは涙目でゾロを睨みあげた。
「いじわる」
やられっぱなしではいけないと、くろねこは自分が思う限り可愛い声でそう訴えた。
自分に可愛らしさが皆無なことは分かっているが少しぐらい――――なんて思う暇もなく腰に違和感を感じたくろねこが慌てて逃げ出そうとする。
「ッ、ちょっと!」
「あ?」
「あ、あたって、る」
「誰のせいだと思ってんだ」
そうも素直に反応されると思っていなかったくろねこは、わりと全力でその場から逃げ出そうともがいた。しかし、ゾロの腕は解けない。先程までの駆け引きが嘘のように全力で引き止める力にくろねこが大騒ぎする。
「へんたい!!!」
「煽ったのはてめぇだろうが」
「や、やだ、まだ夕方っ・・・!」
「御飯呼ばれるまで時間あるだろ」
「っ~~~!」
肌を滑る手に、腰に当たる熱。
興奮しているのが分かる熱い吐息が耳にかかり、くろねこの肩が跳ねる。
「す、るの?」
「してェ」
「・・・・・・」
「んだよその顔は」
「手加減してくれないと御飯食べ損ねそうだから嫌」
「手加減すりゃいいんだろ」
あぁ、その顔は―――――。
「手加減する気、ないやつだろぉっ・・・・!?」
気づいてからではもう遅いと、くろねこを押し倒したゾロが笑った。
◆◆◆
規則正しい金属音。
数を数える荒い声。
「2910、2911・・・・」
その隣で刀を振るっていたくろねこは、汗を拭いながらゾロが鉄串を振り下ろす目の前に座った。真正面からマジマジと見つめればゾロが少し表情を歪める。
「・・・・2912」
それでも言葉にしないのは意地なのか、気にしていないのか。
くろねこはわざとらしく目を細めると置いてあった水を一気に飲み干した。口の端から溢れた水が暑さにはだけさせたくろねこの肌を滑り落ちていく。
「ふー、うまぁ」
「2913・・・・2914・・・・」
「ゾロも飲む?」
「2915・・・・」
そう言いながらくろねこが差し出したのはサンジ特性ドリンクだった。
それがあるなら何で俺の水を飲んだんだという無言の目線を受け取ったくろねこが、ケラケラと笑いながら特性ドリンクに口をつける。
「暑いんだもーん」
幼なじみから恋人になって、くろねこはゾロのことを更に知るようになった。
最初に知っていたことは小さなことでも、繰り返せば大きくなっていく。誰だって知ってるようなことから、くろねこしか知らないようなことまで。お酒が好きで、お酒に合う料理も好き。それから意地悪するのが好きで、意外と視覚的な誘惑に弱くて―――――。
「どうしたの?カウント、止まってるよ?」
今、2918だよと呟きながらくろねこはわざとらしく口の周りの水分を舐め取った。彼の視線ははだけたくろねこの胸元に注がれている。それからむき出しの足にも。
「どこ見てるのさ。こんなの、ナミやロビンで見慣れてるでしょ?」
この船に乗っている女性陣は誰もが見惚れる美貌の持ち主だ。
晒された肌色の多さだって普段から見慣れているものだろう。だが、それが“好きな人“のものとなれば話はまた別、というのがゾロの本音だった。
「・・・・・」
鍛錬を邪魔する光景。
わざと煽るような視線と行動を取るくろねこの意図に気づいたゾロが、数を数えるのを止めて舌打ちする。
「・・・・邪魔するなら帰れ」
「昨日邪魔した挙げ句腰立たなくしたやつに言われたくなぁい」
昨日あの後ゾロに美味しくいただかれた挙げ句、手加減するという言葉の0.1ミリも守られなかったくろねこは、恨みを込めながらゾロを睨み上げた。そのせいで御飯を食べ過ごし、腰が立たず夢の3000回トレーニングも出来なかったくろねこの恨みはゾロが思っている以上に重いらしい。
「・・・で、邪魔してなんになるんだよ」
呆れ顔で鉄串を置くゾロにくろねこがべーっと舌を出して答える。
「なんかムカつくから邪魔してるだけですぅー!人が苦労してる3000回を簡単に越えようとしやがって!」
「餓鬼かお前は・・・・」
ゾロの邪魔が出来て満足出来たらしいくろねこは、胸元の乱れを直して立ち上がろうとした。が、しかし。それよりも早くくろねこの前に立ちはだかったゾロがくろねこの両側に手をついて逃げ道を塞ぐ。
「おい」
「なにぃ?」
「邪魔しといて責任とらねェつもりか?」
「・・・・え」
壁とゾロに挟まれ、完全に逃げ道を無くしたくろねこはゾロから目を逸した。嫌な予感がすると無言の空気に耐えきれずゾロを見上げれば、魔獣を宿した瞳と目が合う。
―――――嫌な予感しかしない。
「・・・・昨日、あんなにしたよね?」
「あァ?だからなんだよ」
「満足したでしょ?」
「それと、今煽った責任とは別だろ?」
「い、いや、たんま、ちょっと待っ・・・!」
覆いかぶさってきたゾロを蹴り飛ばすように足を上げたくろねこを、ゾロは簡単に押さえ込む。
「すぐ足使おうとすんな、行儀悪ぃぞ」
「うぐ・・・」
「・・・・お、黒」
「ッばか、覗くなっ!!」
「あー?いつも見てんだから一緒だろ」
「デリカシーがない!」
上げた足の間に体を滑り込ませられたくろねこは、いよいよどうしようも出来なくなった。びくとも動けなくなった状態で、キスできそうな距離のゾロと睨み合うことしか出来ない。しれっと太ももを滑る手は昨日と同じように燃えるような熱を帯びていた。
「・・・・よくそんなんで、この船で今まで我慢してたね・・・」
「人を獣みたいに言ってんじゃねェ」
「違うの?」
「何度も言わせんな。・・・・お前だから欲しくなるつってんだろ、くろねこ」
なんて殺し文句だ。
かっこいいこの男なら、ある程度の女をこの決め台詞で落とすことも出来るのでは――――なんて失礼なことを考えていたのがバレたのか、ゾロが口の端を上げて意地悪く笑う。
「疑ってんのか?」
「だってゾロぐらいのイケメンならその殺し文句でイケるでしょ」
「・・・・へぇへぇ、そうかよ」
面白くないとばかりに表情を歪めたゾロが、くろねこの腕を乱暴に壁に押さえつけた。さすがにからかいすぎたか?とくろねこが謝ろうとするよりも先に、ゾロの唇がくろねこの唇を塞いだ。
噛みつくような口づけにくろねこの力がするりと抜けていく。
「ん、ぅ」
「俺がこんなこと、お前以外にすると思うか?」
「ん、んんっ」
息継ぎの間に尋ねられる言葉に答える権利は与えられない。
「こういう風にしたいって考えてると思うか・・・?」
「ん、っ」
「なァ?」
「っ・・・・」
かすめる吐息。
触れる、舌。
他の人にこんなことをしているところなんて、考えたくない。
「・・・・て、ほしくない」
「ん?」
「どっちだとしても・・・・他の人に、してほしくない」
「・・・・当たり前だろ」
「ん・・・・」
お互いに見つめ合い、そしてまた口づける。
「トレーニング、いいの?」
「邪魔しといて言う台詞かそれ」
「ごめんなさーい」
「謝っても責任は取ってもらう、覚悟しろよ?」
「ちょっと!今日こそ手加減をっ・・・・」
あぁ、この表情はまた!
3000回まで我慢して
(月夜に照らされる展望台に、御飯を運ぶ彼の姿があったのはいうまでもない)
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